会社員・キャリア

リーマン・ショック後の就活で分かった「行動力が全て」

こんにちは!肥後庵の黒坂です。
私は今は潰れてしまった不良吹き溜まりの工業高校を卒業し、1年間引きこもりニート、4年間コールセンター派遣を経験しました。「さすがにこのままじゃ人生ヤバイ」と感じて、働きながら大学受験をしてギリギリ短大に滑り込むことが出来ました。その後は学部へ編入、アメリカの大学で会計学を学び、筑波大学大学院MBAコース(入学はしませんでしたが)ととにかく上を目指し、ブルドーザーのようにつき進んできました。そこに至るまでの道は平坦なものではなく、逆境の風が嵐のように吹き荒れていましたが「大丈夫。きっとうまくいく」と信じて諦めずに済みました。活字にするとうまくいっているように見えるかもしれません。しかし、そこにたどり着くまでの道は本当に多難に満ちていたと思います。

これまでの人生でもっとも絶望感があったのはいつか?そんなことを振り返ってみて考えると、リーマン・ショック後の就活でした。あの経験は自分を大きく成長させてくれ、多くのことを学ぶきっかけとなりましたができればもう二度と味わいたくないと思える苦しい時期でした。今でもいくつも困難を感じることはありますが、「あの出来事を乗り切ったのだから大丈夫」という自信と「あんな状態には戻りたくない」という強い意志が芽生えたことで、日々ビジネスに邁進することが出来ているように思えます。

 

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努力をして駆け上がった先に待っていた地獄

今では「まあうまくいくでしょ」と何事もお気楽に捉えることが出来るようになりましたが、私は昔から元来、神経質で臆病者でした。人から何か言われるとその言葉を深読みしすぎるあまり、「あの人はなんであのタイミングであんなことをいったんだろう?」といちいち気になってしまい、心をすり減らすという具合です。

臆病で神経質なはずなのに、ゲームにハマって義務教育は中学生でコケてしまいました。23歳の遅咲き大学生デビューを迎えるまでは「この先自分の人生はどうなってしまうのだろうか?」と絶望的な未来を想い、時間の経過が恐ろしくてたまりませんでした。この不安を払拭したい、だけれども何をやればいいのか分からないし、勉強はサッパリ…。ただただ日々を堕落して塗りつぶす日々を18歳から23歳まで過ごしたわけです。

それだけに大学入学が決まった時は嬉しさが爆発しました。大学に入ることではなく、人生の生きる目的がはっきりと決まったことに対してです。入学した短大は英語科でしたので、「自分は2年で英語をマスターして、その後はアメリカの大学へ留学して専門分野を学ぼう。将来は外資系企業で英語と専門知識を活かしてグローバルに働きたい」。ニートとフリーターをしていた頃はゲームをして寝てばかり、やりたいこともやるべきこともなかったので、「頑張れる対象がある」というのは人生の幸福度を高めてくれることを心底理解できました。

入学後は猛勉強をして、短大から学部へ編入し、アメリカの大学で会計学を学び自分の中では順調に進んでいると感じていました。特にアメリカに渡ってからは毎日夜中の2-3時まで図書館で勉強漬け、一時期勉強ノイローゼで大学の心理カウンセラーにかかるくらい勉強をしました。勉強のモチベーションの全ては「卒業後に外資系企業でグローバルに働く」という入学時から変わらない夢です。自分が外国人社員に囲まれ、優雅にプレゼンテーションをしている姿を何度夢見たことか分かりません。そしてこれほど努力をしているのだから叶わないわけがないのだと心の底からビジョンの実現を信じ切っていました。毎日、ネットの求人検索窓に「英語 会計 外資系」といったキーワードを打ち込み、求人数や募集要項を見て卒業を待ちわびていました。

その一報はYahooニュースのトップ記事で知りました。「リーマン・ショック」、当時そのキーワードを聞いても金融危機など所詮他人事、まさか戦後の焼け野原のような地獄の就活が待っているとは夢に思いませんでした。深く考えることなく私はアメリカから日本に帰国、ハードに勉強をしてきたので少しだけのんびり過ごそうと思って実家でまったり生活をしていました。ある日、時々やっていたように求人検索をしてみました。これまでは時期でその数が変動することはあっても、おおむね一万件以上は常に募集のあった某大手求人サイト。何気なく検索をした私は目の前に出てきた数字が信じられませんでした。「あれ?2,000を切りそうだ…」。そう、求人数が大激減していました。渡米した頃は1万件以上あったはずの求人が4-5分の1以下になっているのです。嫌な予感がして、リーマン・ショックのことについてそこで初めて真剣に調べました。「100年に一度の金融危機」、そう他人事に思っていたリーマン・ショックは就活に直結する自分事であったことにこの時、初めて気づきました。

 

100社エントリーして1社書類選考という絶望感

のんびり過ごしているどころではない事に気づいた私は、早速行動を開始しました。片っ端からエントリーです。ですが、エントリーしてもエントリーしても一向に回答がありません。回答があるのは応募の半分あればいい方で、返ってくる回答も「これからの貴殿の活躍をお祈りいたします」という定型文ばかり。これはただごとではないぞ、そう感じて米国公認会計士資格をとるためにお世話になっていたビジネススクールのキャリアセンターに相談してみました。そこで言い渡された話は、私にとって死刑宣告に等しいと思えるものでした。「現役生から5年加齢しているあなたは新卒枠ではなく、転職枠という扱いになる」「当スクール経由で応募したところから”最後に働いたコールセンター派遣から5年間ブランクが有る人は雇えない”と回答があった」「1人の応募枠に100人以上応募が殺到している」「あなたが希望する会計の分野は経験者有利で、この不況下で若くない大卒未経験を雇う会社はない」「コールセンターの仕事ならあるかもしれない」という惨憺たるものです。

このまま死んで人生を終えたい、そう思って目の前が真っ暗になるという経験をしたことは初めてでした。情熱を燃やし、短大から学費・生活費免除枠留学生としてアメリカの大学までいって猛勉強をしたあの努力は何だったのか?自分はやはりコールセンター派遣の仕事しか出来ないのか?気がつけば家についていました。どうやって戻ったのかはまったく記憶にありません。キャリアカウンセラーにこてんぱんに打ちのめされ、求人検索には絶望的な数字しか出てこないこの現状を打破することなどできるのだろうか?しかし、なにもしないでいると心が蝕まれます。テレビから聞こえてくる「就職難」「リストラが断行」という呪いの言葉をはねのけて前へ進み、希望を手にするには「内定」というチケットを手に入れるしかありません。

この地獄を抜け出すには行動しかない。私は壁に「Act without thinking!(考えずに動け!)」と張り出し、動きまくりました。30社、50社、そして100社と壊れた機械のように片っ端からエントリーです。エントリーをしている間は、心が苦しまずに済みました。行動をしている時は苦しいことを考えずに済む。この体験を経て理解したことは今でも血肉となっています。応募先は会計職一択、ここは譲れるわけがありません。私は大学二年生から教材を買いあさり、ビジネススクールの門戸を叩き、アメリカまでいって簿記をそして米国公認会計士の勉強をしました。これまで頑張った分野で仕事をする、まさにそのためだけに23歳からの4年間全ての時間を費やしてきたのですから。その結果は程なくして現れました。まったく通りません。100社エントリーして、「それでは一度面接に…」とポジティブな回答があったのは福岡県の来たこともない小さな町の会計事務所の見習い候補枠です。その夜、私は不安と絶望で一睡も出来ませんでした。

 

入社後、2週間でクビになり自殺を考える

毎日毎日、ロボットのようにエントリーをしては音沙汰がない日々に絶望の底に落ちていた私は、戦略を変えることを検討し始めました。「今は未曾有の大不況であまりにも戦況が悪い。まずは生活できるための資金源の確保と、キャリアエージェントに相談して力になってもらうしかない。もう自分ひとりの力で突破できる状況ではない」そう考えるようになりました。実家は事業に失敗して貧しく、母もパートで生計を立てている状態でとても頼ることは出来ません。大学卒業祝いを近所の回転寿司と、チェーン店の300円ケーキで済ませた後、私は上京を決意しました。幸い、私の手元には大学時代にアルバイトをして貯めた20万円の現金があります。「このお金を持って東京へ行こう。頼れる人もいないし、勝算があるわけでもない。だが、とにかく大都会、東京へいって行動すれば突破口が開けるかもしれない」そう思って4列シートの最安夜行バスに飛び乗って、東京へ向かいました。宿泊先もよく知りませんし、何がどこにあるのかも分かりません。一睡もできないまま、夜行バスは東京駅八重洲口に停車します。

私はゴロゴロとスーツケースを引きずりながら、宿にたどり着きました。降り立ったのは南千住駅のドヤ街、日雇い労働者が寝泊まりするもっとも安い宿を生活拠点に定めました。半年ほど前まで、シカゴのウィルスタワー(旧:シアーズタワー)のすぐ近くのきれいで高級感のある大学寮に住んでいたのに、一気に落ちたな…と自虐的に笑いが出てしまったほどです。しかし、じっとはしていられません。安いとは言っても一泊数千円が毎日飛んでいきます。息をするだけでお金がかかる、私は圧力鍋で玄米と大豆を炊いたものに塩をふっただけの弁当を持って渋谷へ、新宿へ、銀座へとキャリアエージェントを訪ねて歩きました。もう業種を会計食に絞っても勝ち目はありません。まずはできる仕事をして、生計を立てなければ資金が枯渇してしまいます。毎日3-4社のキャリアエージェントに足を運んで、早速仕事の紹介が始まりました。未経験OKの会計職に限定しなければ、なんとか仕事はあるものです。なりふりかまっていられません。お金をもらえる場所を求めて、働いてもいないのにスーツに身を包んで電車で移動をしながらキャリアエージェントに登録、紹介を受ける毎日でした。

東京へ来て戦果は幾分改善しました。会計職を諦め、他の英語力を活かせる事務職に範囲を広げるとポツポツと仕事が見つかり、面接に進めることが多くなりました。面接では「え?27歳?年食ってるなあ」とか、「なんで5年も遅れて大学にいったの?」といったような否定的な反応は皆無で、面接官の方は「努力家であることが履歴書から伝わってくる」「遅れて大学へ行く意欲を買いたい」とポジティブなことを言われ、思わず涙ぐんでしまいそうになりました。東京に来るまで、私は関東人を冷たい人たちだと誤解していました。私は大阪府出身ですから、どことなく東京に対してライバル心みたいな物を持っていたことがあります。「東京モンなんて冷たいんや」と今考えると自分を殴りたくなるような恥ずかしいことを考えていました。ですので、思わぬ東京での温かい言葉に救われました。夜も「今日の面接は手応えがあったぞ」と安心して少し眠れるようになりました。

「それでは来週から来てください」そう言われた時、私はあまりの嬉しさにビルを出てスキップをしてしまうほどでした。東京駅の丸の内にある大手金融関係の仕事に内定を得ることが出来たからです。それまでは夜間のコールセンター業務とか、事務職で面接へ進んでいたのでまさかこんな一級の仕事からオファーが来るとは夢にも思わなかったのです。世の中捨てたものではない、そう思って実家の母親に内定を得たことを電話で話したときのことをよく覚えています。

しかし、地獄はそこでは終わりませんでした。内定を得た二週間後、私は人事に呼び出されてクビを言い渡されました。夕方まで普通に仕事をして、いきなりHRからチャットで「来てほしい」と呼び出されて「明日から来なくていい」というドラマのような体験でした。ここでも詳しいエピソードは今回は省きます。もしも需要があるようであれば書いてみようと思うのですが、あまりにも分量が多くのあるので書くにしても別記事に分けたいと思います。

クビを言い渡された帰り、私は人生に絶望しました。もう終わりだ。人生でここまでこてんぱんにやられて未来が閉じられたと感じた瞬間はありません。アメリカに留学した時は心理カウンセラーに相談しましたが、今度はそんな相談すらする気力もありませんでした。「もう死のう…」そう思って、千代田線のホームのベンチに腰を下ろしてじっと座っていまいた。「次来た電車に飛ぼう」「次こそ飛ぶ」しかし、いざ死のうと思っても、なかなか足が前に進みません。「各駅停車じゃダメかな?快速じゃないと」そう思って中央線へ移動しようと思い、ベンチから腰を上げたときに母親から電話がありました。「会社うまくいってる?」私を心配する電話でした。思わず、涙が溢れます。本当のことはかっこ悪くて言えません。「いや、条件がひどいから断ったよ。次の会社の内定が決まるからそこにしようと思っている」、もちろん嘘です。「せっかくいい会社に入ったのに断っていいの?」そう返ってくると思っていました。ですが、母はこう言います。「…本当?何かあった??」と。すごいですよ、母親には私の隠し事なんて筒抜けでした。「今忙しいからまた落ち着いたらかけるわ。ありがとう」、そういって電話を切ります。もう死ぬ気はなくなっていました。

ここで死んだら母はきっと自分を責めるだろう。あの時死ぬのを食い止める事ができたのに、と。そんな苦悩を自分はいいが、母には絶対に味あわせたくない。そう思い、死なずに生きることにしました。

 

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「諦めたらそこで終わり」可能性とは行動力のこと

私は帰りにコンビニの無料求人誌を持ち帰りました。こうなったら生き延びてやる。コンビニ店員でもいいし、コールセンター派遣でもいい。英会話の講師でもいい。とにかく働いてお金を作って、虎視眈々と就職のチャンスを掴んで生き延びてやる!そう思って求人誌をめくっているとキャリアカウンセラーから電話がありました。「紹介したい仕事がある」と。その日はなぜか、電話が3件、4件と着信して次々と仕事の紹介をしたいと連絡がありました。今考えると決算期前で人手不足だったのかもしれません。しかし、当時の私はその数々の紹介の連絡が血の池地獄に垂らされた1本の糸のように感じました。

その後、動いであがいてもがき続けました。一年で4社会社を変わり最後に外資系企業で経営企画、改革の仕事をすることになりました。フロアの半分以上が外国人、英語と会計知識を使って精力的に働くところまでたどり着くことができました。

長い長い話になりましたが、この一連の経験を経て私が理解したことは、諦めずに行動するということです。あらゆる可能性は行動しなければ0%になってしまいます。世の中、何もせずに勝手にいいことが降ってくることはありません。その逆にどんな困難も諦めずにその扉を叩き続けることで運命の扉が開くことがあるのです。私は人生の可能性というとても大事なことを就活経験を経て学んだと思っています。

長くなりましたが、「諦めたらそこで終わり」ですよ!

 

 

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黒坂 岳央

高級フルーツギフトショップ経営、雑誌・テレビのビジネスジャーナリスト、作家、講演家、投資家と幅広く活動。 元・高卒ニート&フリーターだが、米国大学留学を経て外資系勤務後に起業。 メルマガも書いてます→https://takeokurosaka.com/mailmagazine/

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