人生に迷ったらインフルエンサーより歴史の偉人に聞こう。
今回は明治時代に独学で英語多読!外国語の超人、野口英世の偉人伝説を完全解説というテーマを解説する。野口英世といえば、細菌学者として世界に名を馳せた偉人とか、2004年から1000円札になった人、という認識の人はほとんどだろう。しかし、実は彼は意外にも外国語の達人というをご存知だろうか?留学なし、純ジャパの僕が独学の英語多読で英語がペラペラになった!を体現した人。
日本語、英語、フランス語、ドイツ語、中国語、ロシア語をマスターして原書で医学書を読みこなしていた。6カ国語をマスターってバイリンガルどころじゃない。すごすぎてもう笑いが止まらない。英世は卓越した語学力を活かして、数々の大活躍をした。若い頃、横浜港検疫所で働いていたけど、当時ヨーロッパで流行していたペストが日本に上陸するのを感染者を見つけて未然に防いだ。英世の活躍がなければ日本でも猛威を振るっていた可能性はあるのでまさしく大手柄。それからアメリカから来日した細菌学者の通訳をこなしたことがきっかけで渡米することになり、そして細菌学者になって人生が開けていった。彼は医学者として偉業が知られているけど、実は外国語ができたことでたくさんの可能性を掴んでいった語学の超人だったんだ。
また、外国語が得意だったというだけじゃない。とにかく勉強の鬼だ。読書や勉強をしたいけど家は貧しくて明かりがないので、彼は友人の家のあかりで本を読んだ。研究者になってからはますます努力に磨きがかかって、「ナポレオンは3時間しか寝なかった」という逸話を真に受けて同じく3時間睡眠で研究に没頭した。
留学もYouTubeもなく、カセットテープや映画すら存在しない明治時代の日本、ろくに学習環境が整っていなかったのに一体、どうやって非常に高い英語力を身に着けたのか?学歴なしお金なしの逆境に負けず、努力で人生を切り開くことの重要性を、我々は野口英世の生き様から学ぶことができる。この動画を作る上で何冊か伝記を買って読み直したけど、偉人認定されてる人はやっぱり伊達じゃない。その辺のよくわからないインフルエンサーが霞むほどのすごさ。…そして何より面白い!事実は小説より奇なりという言葉通り、ハリウッド映画になっても不思議ではないほどの波乱万丈の人生。あなたにもおすそ分けをしたい。最後まで動画を見たらあなたは間違いなく今すぐ猛烈に勉強したくなると約束しておこう。さて、今回は野口英世の偉人伝を次の通りお届けする。
1章 明治時代の日本人の英語多読勉強法
2章 努力の天才!野口英世の生き様
ではいく。
目次
1章 明治時代の日本人の英語多読勉強法
さて、1章 明治時代の日本人の英語多読勉強法について解説していこう。それを理解することで、実は英語多読が英語力を伸ばす鍵だということが理解できる。実は高い英語力を持っていた明治時代の日本人の偉人は、野口英世だけでなかった。国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造(にとべいなぞう)、「これからの日本の総理は外電を読めなくてはだめだ」そう言われて指名された伊藤博文、そして英語多読の効果の高さを熱心に語った文豪の夏目漱石など明治時代の数々の偉人に英語力の高い人がいる。
そもそも明治時代ってどんな時代?これを理解すると日本人の勉強法の本質が見えてくる。明治時代は1868〜1912年。この時代はカセットテープもないし、アメリカ映画もない時代。NHKラジオ放送は1925年、大正14年開始なので明治時代にはまだない。日本人が日常的に英語に触れるのは、1945年昭和20年の太平洋戦争終戦後になった後のこと。
そんな明治時代は西洋文化を吸収して東アジアで最も早く近代化を遂げた。欧米列強に追いつけということで、英語の重要性は理解されていて、当時の人にとって英語の勉強法は辞書を片手に英語の教科書や洋書で勉強するというスタイル。この動画の主人公である野口英世が生まれたのは1876年、明治9年。この時代の英語の勉強の手段は教科書と洋書のリーディングしかない。記録によると、彼はナショナルリーダーという教科書を常に持ち歩いてリーディングをして、24歳ではじめて渡米するために乗り込んだ船ではシェークスピアの「ヴェニスの商人」を読んでいた。
今画面に出しているのは、1902年明治時代に出版されたバーンズのニューナショナルリーダーズの原書のAmazonサンプル。当時の日本人はこのようなテキストを使って勉強をしていた。This is a boy and his dog. (こちらは少年と彼の犬です)Run, boy, run!(走れ、少年よ、走れ!)今から100年以上前の英語の本だけど今見ても意味はちゃんと分かる。
英語の音声もまともに手に入らず、ハリウッド映画もない。YouTubeもなければ、格安英会話スクールもない。英世はこんな時代に教科書の多読で英語力をつけた。このような明治時代の背景を考えると、英語力を身につけるには高価な英語学習教材も要らないし、マンツーマンレッスン、語学留学、最短最速魔法のようなとっておきの裏ワザ勉強法なんて要らないことがわかる。とにかく独学で多読リーディング。これこそが原点にして頂点の勉強法であり、現代のようによくわからないけったいな英語学習法はほとんどがノイズに過ぎないと自分は思う。
そんな時代背景を説明したところで、2章からはいよいよ野口英世のスーパー偉人伝を解説していく。正直、これ作り話なんじゃないかと錯覚するほどすごい話のオンパレードで下手なハリウッド映画よりはるかに面白い。じゃあはじめよう。
画像引用元:New national readers no.1 (国立図書館コレクション) Amazonサンプルより
2章 努力の天才!野口英世の生き様
野口英世は1876年野口家の長男として生まれた。彼の名前は生まれた時は英世じゃなくて野口清作だった。あれ?名前が違う?そう、彼は後から話をするけど22歳で改名をしたことで英世になった。
1歳で左手に大やけど
世界的細菌学者の偉人の生まれは福島県の猪苗代湖に面する貧しい農家だった。家の屋根が雪の重みでギシギシと音を立るような家。「ああ、頼むから壊れないで。耐えろ。耐えるんだ!」今にも崩れ落ちそうになる家にそんなお願いをするような貧乏な家庭。
馬小屋が潰れた時には、なんと母親のシカさんが自分で修理した。それだけじゃない。農家の命である田んぼを売り払うことになるくらいとにかくお金がない。「いやいやお父さん、何やってはるんですか?お金稼いできてくださいよ」思わずそういいたくなるよな?でも父親は酒浸りで、母親の野口シカが大黒柱を務めていたんだ。そんな貧しい家庭に清作は生まれた。残念ながら親ガチャはあたりを引くことができず、なかなかハードな人生の始まりだったんだ。
そして個人的にしっかり注目してもらいたいのは、母親の野口シカの存在だ。この母親こそが、偉人、野口英世の真の立役者なんだ。この母親の愛情がなければ、おそらく清作は偉人どころか下手すると無敵の人として記録されていた可能性だってある。さて、そんな母のシカはどんなルーチンだったのか?
一言でいうとスーパーハードワークだった。彼女は早朝の暗い内から取ったエビを片道30キロ先の町に売りに行ってお金を稼いだ。もちろん、それだけで仕事が終わるわけはなく、日中はギラギラ直射日光照りつける過酷な農作業でがたがたになるまで重労働。じゃあ夜はしっかり休めるんでっか?いや、夜も働く。いろりのそばで内職だ。
もういいッ…!休めッ…!ブラック企業の社長が腰を抜かすほどの文字通り働き詰めの毎日。こんなに頑張って家庭を支えるのに、世の中、神様なんていないんだよな。母親シカはがふと目を離したすきに、愛する我が子の清作はいろりにおちてしまって左手を大やけど。これが1歳5ヶ月の春に起きた野口家の大事件だった。大やけどを負ったことで清作はグーで握った状態のまま開かない棒のような左手になってしまった。ドラえもんをイメージしてもらえばと思う。これだけ悲惨なやけどを負ってしまうも、野口家にはとてもとても治療できるようなお金があるわけもなく、それ以降責任を感じたシカは農作業中もエビの収穫中もずっと清作から目を離さなくなったというんだ。貧しい農家に生まれて、1歳5ヶ月で左手が大やけど。偉人はとんでもない人生のスタート地点だった。
学校でイジメにあう
その後は大きなトラブルはなく、清作は6歳から小学校に入学する。清作が入学したこの学校、実はお金に余裕がある子供が通うところだった。あれ?でも野口家の家計は火の車だったんじゃ?そう思った人もいると思う。それを実現させたのは、実はお母さんの頑張りだった。シカは文字通り死にものぐるいで頑張ってお金を稼ぎ、なんとか小学校に入れた。
このお母さん、男顔負けの仕事もこなすガッツのある女性だった。ある時、村の村長である名主にお願いをして、荷運びの仕事を請け負った。「どうしてもお金が必要になるので、ハードでも構わないから給与のいい仕事はありませんか?」熱心に頼み込むシカ。「いやあ、でもシカさん、あなたすでに朝から夜まで働き詰めでしょう?体は大丈夫なんですか?」「構いません。我が家にはとにかくお金が必要です」必死にお願いをする。名主は迷った。「確かに給料を出せる仕事はあるにはあるけど、かなりの重労働になるので…」「構いません!やらせてください」シカは清作のために頭を下げてなんとか給料のいい仕事をゲットした。
でもこの仕事、実は屈強な大人の男でも裸足で逃げ出すような過酷なもの。福島の厳しく凍てつく寒い冬に、重い重い荷物を持って運ぶ仕事だったんだ。寒い、重い、もう足も手も感覚がない…今にも気絶しそうになるほど意識が朦朧としながらドカ雪の中で荷物を運ぶシカの目の前に幻影が見えた。目の前にいるのは息子の手だった。そうだ、あの子は自分の不注意のせいで左手のやけどを負った。あの手では将来、農家や肉体労働はとても出来ない。この子には学問の道で生きていくしかない。それにはお金が必要なんだ。私が頑張るしかないんだ。清作に勉強をしてもらわねば。
そんな涙ちょちょぎれるような母親の一心の愛を理解した清作は、シカの愛に応えるためにも必死に勉強をした。必死に働く母親の姿を見ながら、寸分惜しんで勉強を頑張った。家にはランプがなく、日が落ちると暗くて本が読めなくなるから、友人の家の風呂炊きをさせてもらっている間に読書。風呂に入っている時も読書。努力に次ぐ努力だ。
寺の住職さんや村の警察官から英語や漢文を教わり、努力のかいあって最年少で成績はトップ。清作は「生長」に指名された。この生長とは何かというと、先生が忙しい時に代わりに先生役を務める仕事だ。成績優秀で生長に任命された息子の活躍ぷりを聞いてシカは涙を流して喜んだ。頑張れ清作、頑張るんだぞ。私も頑張って稼ぐからな。
しかし、これが周囲の生徒たちの嫉妬を買ってしまったんだ。清作の家は貧乏なくせに生長になるなんて生意気な!なんという醜い嫉妬だろう。もうね、控えめに言ってクズですわ。清作は手が棒のようになっていたので、テンボーとバカにされることがあった。おい、お前、生長になったからって調子に乗るなよ、この…テンボーが!そうやっていじめられるようになった。
清作は勉強は人並みはずれて頑張る子だったけど、メンタルまで人並みはずれてるわけじゃない。なんせまだまだ小学生だ。テンボーといじめられたことを苦に登校拒否になった。かわいそうに。とうとう、周囲のいじめっ子たちに屈服してしまうわけだ。しかし、ある日、勉強道具を持って家を出かけたのに近くで時間つぶしをしている清作を見つけたシカがショックを受けた。おめえ、こったらとこで何してるだ!学校はどうした!! でも次の瞬間、シカはすべてを理解し、そして農具を放り投げて思わず駆け寄って抱きしめる。ごめん、清作ごめんよ。自分のせいでこんな不憫な思いをさせて。でもお前は勉強をしろ。勉強をすることでしか道は切り開けないんだ。このシカの母親の愛情に目を覚ました清作は、再び前を向いて登校するようになった。
医学の道を目指したきっかけ
勉強がよくできる清作は、卒業試験の面談で運命の出会いを果たす。その相手とは小林先生。
小林先生は清作との面談で、清作の頭の良さを感じていた。この子は他の子と違う、テキパキ回答して頭の良さがビシビシ伝わってくる。しかし、気になることがあった。彼はなぜ、コソコソ左手を隠すのか?おい、どうした?左手になにかあるのか?清作は小林先生にそう聞かれて、棒のようになった左手を小林先生に見せた。そして辛い経験を告白する。自分は幼い頃にやけどをして…と辛い告白。その話に思わず心を動かされた小林先生はこういった。「あなたのような優秀な人材は、ここで止まってしまったらダメだ。ぜひもっと上の学問を追求するべきだ」と高等小学校進学を推薦した。
小林先生の援助のおかげで、清作は高等小学校に入学を決意。実はこの進路は近所の子がするような普通の進路ではなかった。周囲の子は清作と似たようなお金のない農家の子どもたちが多かった。だけど、清作が進学する高等小学校は本来、裕福な子供しか進学が出来なかった。でも清作は小林先生の力強い勧めに素直に従っていい学校へ進学することを決めた。猪苗代湖 高等小学校に入学した清作は。往復12キロの道のりを毎日歩いて通った。もちろん、そこでも鬼神の如き勉強をしてぐんぐん成績をあげていく清作。そしてこの学校で人生をひっくり返す大転換期が訪れた。それは15歳の時だ。一体、清作に何があったのか?
高等小学校で、清作は自分の左手について作文を書いた。これまでの人生で左手のことでどれだけつらい思いをしたか?肉体労働ではなく頭を使う仕事を掴むためにも、なんとしてでも人生を切り開くために今日まで必死に勉強に取り組んできた熱い思いを作文に綴った。この発表に対してクラスメートだけでなく、先生も大号泣。彼はこんなにも苦労していたのか!ああ、彼の左手を治してやりたい。そうだ、募金で彼を救おう!そうやってお金を集めて、アメリカ帰りの医師、渡部医師の手術を受けることになった。
この手術は結果的に大成功、それまでずっとグーの状態で握り込んでいた清作の左手はなんとくっついた指を剥がして開くことができるようになった。清作は手術の結果に感動した。医学はなんて素晴らしいんだ。一生このままと諦めていた左手をこうして復活させる力がある。人一人の人生を大きく変える力がある。よし、自分は医師を目指ぞ!この瞬間、左手の指だけでなく世界的細菌学者への道が開かれたことを当時の人達は誰も知らなかった。
細菌学者に、オレはなる!
清作は高等小学校卒業後、なんと自分の手術をしてくれたあの渡部医師を訪ねた。「あの時は左手をお世話になりました。どうか僕をここで働かせてください」必死に頼み込んでその病院に入門した。今の時代にこんなことをすると、容赦なくセコムされるけど当時はこういったスタイルの弟子入りはそこそこあったのかもしれない。清作のこの押しかけに圧倒されながら、渡部医師はOK、いいよといった。
渡部医師の下で住み込みで働きながら医学の勉強を開始した清作。彼は暇さえあればとにかく本を読んで勉強勉強、猛勉強。そこで高いレベルの英語、ドイツ語、フランス語を身につけた。猛烈に働き一心不乱に勉強をしていた頃、またまたここで偶然人生を大きく変える出会いが起きた。一人目は小学校時代に小林先生に出会ったことだったが、二人目のキーパーソンは血脇守之助だった。この血脇先生はどんな人物だったか?日本の歯科医学への貢献した重要人物だ。血脇先生は20代の若さで清作の才能を見抜いた鷹の目のようなするどい眼力を持っていた。清作がドイツの医学者、カールデンが書いた細菌研究法の原書をスラスラ読んでいたことに心底驚いた。こいつはまだまだ書生の見習いの立場なのに、これはとんでもない力を持っているぞ。将来、絶対に大物になる!血脇先生に目をかけられた清作は、そこから頻繁に彼の力を借りていくことになる。この血脇先生は清作の「育ての親」として知られている。血脇先生との出会いがなければ、細菌学者・野口は誕生しなかったと言われるほどだ。
清作は医師免許を取るため、慣れ親しんだ福島を離れて東京へ行くことを決意した。キーパーソンに導かれてドンドン上を目指して突き進む清作。しかし、ここで大失敗をやらかしてしまうんだ。一体、何が起こったのか?なんと、20歳そこそこで初めての都会の刺激に浮かれてしまって、上京してすぐに酒や遊郭で使い込んだ。え?どゆこと? だってさ、清作はお金のない苦学生でしょ? なんでそんな遊ぶお金なんて持っていたの?誰もがその疑問を抱くはず。
実は清作は小学校でお世話になったあの小林先生から選別として大金を受け取っていた。小林先生から受け取った大事な大事な大金の40円を、東京での遊びで溶かしてしまい、その結果、たった2ヶ月で下宿先を追い出されてしまうんだ。オイオイお前何をやっとるねんw ちなみに40円がどのくらい大金かというと、当時の小学校の初任給は8円と言われているので、ざっくり5ヶ月分の給料を支援してくれたことになる。鬼神の如き努力で勉強を頑張った清作は遊ぶ時も半端じゃなかったということだ。
東京でお金がなくなってすかんぴんになって困り果てた清作は、今度は血脇先生に頼み込んで支援金のおかわりを頼んだ。でも血脇先生、めちゃめちゃ優しい。清作に援助をしてやるんだな。血脇先生の援助でなんとか清作は食いつなぐ。そしてこの血脇先生、清作のことをまるで我が子のように「よく分かっていた。こいつはお金にだらしないから、全額渡すとすぐ使ってしまう。そうだ一括で渡すのではなく分割で支援してやればいい。そうやって5円を3回に分けて支給した。まるで師匠と弟子のような関係性だなと感じるエピソードだよな。清作は心を入れ替えて、猛勉強を開始。普通は3年くらい勉強して合格をする医術開業試験の前期試験にあっさりと短期合格してしまった。
その後、清作は順天堂医院に就職した。そこでは興味深い症例を論文にまとめる仕事をしていた。仕事中、清作は偶然ひらめいた。そうだ、自分の左手は健常者と違うので、このまま臨床医を目指してもきっと患者からの信用は得られない。それなら左手がハンディにならない分野の細菌学の研究者の道を目指そう。これならハンディはないぞ。細菌学者に、オレはなる!清作はそこから一切のブレなく細菌学者への一本道を歩き続けることになる。
渡米で超える学歴の壁
自分は細菌学者を目指そうと思います。血脇先生にそのことを相談したらこう言われた。「なるほど、それはいいかもしれない。細菌研究をしたいなら、伝染病研究所にいくといいぞ」清作は血脇先生からアドバイスを受けて、21歳の時に北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所に入った。すごい行動力だよね。アドバイスを受けたら本当に素直にその方向へ向けて一直線に突っ走っていく。
しかし、ここで思わぬ壁にぶつかる。当時は今以上に学歴や学閥が物を言わせる時代、周囲はみんな東京帝国大学、京都帝国大学の医学部卒のスーパーエリート揃い。医学を目指すものは、元藩医の家柄や良家の子女がほとんどであり、自分のように貧しい家の出身者はほとんどいなかった。これまで気合と根性と努力で数々の壁をぶち壊してきたけど、学歴の壁は想像以上に分厚かった。
清作は学歴が高等小学校卒、あくまで独学で医師免許をとった非エリートという扱いを受けた。いや確かにすごい。なんならスーパーエリートたちより独学短期間で医師免許に合格した清作の方がすごいと評価できると思う。でも学歴の壁は非常に高かったので、大学を出てない清作は研究をさせてもらえなかった。でも清作が素晴らしいのは決してそこで腐らず、研究の仕事ではなく、語学力の高さを買われて通訳や翻訳の仕事で決して手を抜かなかった。
そして清作は運もよかった。学歴の壁に苦しむ清作に大チャンスが到来した。何が起こったのか?ある日、細菌研究所を尋ねて、アメリカから来日した病理学教授サイモン・フレクスナー博士の通訳を担当することになった。この頃の清作は、心の中でアメリカへいく野望をメラメラ燃やしていた。自分がこのまま日本にいても学歴の壁が立ちはだかり、人生の発展性はすでに閉じられている。でもアメリカにいけばこの学歴の壁を超えられる。当時はアメリカ留学へいって研究することが出世の手段だった。そんなアメリカ行きの野望を持っていた清作は、フレクスナーの通訳をしながら「将来、僕は米国へいって研究をしたい」と自分の願望をそのまま伝えた。フレクスナーは笑顔でこういった。「いいね、その時は力になるよ」あくまで社交辞令のつもりで応じた。だが、この安請け合いは相手が悪かった。行動力がベンチャー企業の社長ばりの清作はそれを「約束」として解釈しようし、アメリカでフレクスナー博士を頼ろうと本格的にアメリカ行きを決意してしまう。清作はよし、これでアメリカにいった時に訪ねる先のコネができたぞと渡米を決意した。
野口清作から野口英世へ改名した理由
さて、ここで清作の改名のエピソードを語るタイミングがやってきた。
清作が21歳の時、恩師である小林先生の妻の病気の診察をするために東京から福島へ帰った。無事に診察を終え、気分転換にと当時、人気を博した「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」という小説を読んだ清作は大きな衝撃を受けた。主人公の名前は野々口精作、自分とほとんど同じ名前じゃないか。ドキドキしながらページをめくると心の中で闇が広がっていくのを感じた。この主人公は医学生でありながら借金をして周りを騙し、自堕落なカイジのような生活をするダメダメ人間だった。清作はまるで自分の短所を集めて濃縮して小説にしたような感覚を覚えた。そしてこれまでの自分の愚行を振り返って恥じた。ダメだ、これから世界で活躍する自分は過去と決別が必要だ、そう考えてなんと改名を決意した。思い立ったら行動が早い清作はまたまた小林先生を訪ねた。小林先生は新しい名前を考え、次のように提案してくれた。「英世はどうか?」と。名前の由来は優れているという意味の英、世の中という意味の世。世に秀でるという願いを込めて英世に改名がきまった。きっとお前が海外で活躍する時にはhideと呼ばれるはずだ。小林先生はそうやってエールを送ってくれた。清作はこの瞬間、野口英世に生まれ変わった。
アメリカで大活躍
英世は23歳の頃、思い描いていた野望がとうとう実現。1900年、彼は学者として名を挙げるために渡米した。
頑張れ!お前ならきっと世界的な学者になれる!応援してくれた知人や恩師からは200円の援助が集まった。現在の金額に換算すると60万円になった。あの血脇先生も必死に駆け回り、アメリカの渡航費を作ってくれた。さらに英世は女学生と結婚して結納金300円、現在価値にして90万円を手にしていた。よし!みんなが集めてくれたこのお金でアメリカで一旗揚げるぞ!…とはならなかったんだ。ええっ?一体、何がおきた?
実は英世、500円を遊びに使い込んで一文無しになったんだ。お前ホンマに何をやっとるねん。渡米直前に大事なお金を何してくれてまんねん。さすがの心優しい血脇先生もこの経済観念のなさに心底呆れ果てた。お前、この間改名までやっとったやんけ、アホかこいつは?もう知らん、このクズ!クズ人間が!普通はこのくらい罵声を浴びせられても仕方がないところ。でも、血脇先生は彼を見捨てなかった。
待て待て落ち着け。今、彼を見放してしまうのは簡単だ。ここで彼を見放せば、それは将来、日本の国家的人材の才能の芽を摘んでしまうことになる。そんな大きな決断を自分の感情だけでしていいわけがない。血脇先生はなんと、高利貸しから300円の借金をして、使い込むといけないからと渡米直前に英世に渡した。よく世の中でクズエピソード伝説として取り上げられているのは、英世はこの女学生とは結婚しなかったのに、結納金を返さないまま渡米したことがあげられるんだ。ええっ?それって結婚詐欺じゃないの?でもその後、血脇先生が詐欺にならないように英世の代わりに結婚持参金を返済した。もうむちゃくちゃ。血脇先生尻拭いってレベルじゃねえぞ。確かに英世は勉強や情熱はすごいんだけど、とにかくお金についてはとことんだらしなかった。
出発直前にとんでもない騒ぎになったけど、なんとか渡米資金を集めた英世は北里柴三郎の招待状を持って、かつて伝染病研究所で通訳をしたフレクスナー博士に飛び込んだ。お久しぶりです。フレクスナー博士!そうやって挨拶をした英世だったけど、フレクスナー博士は心底驚いた。…悪い意味で。対面して博士が発した一言目の言葉はWho are you?誰あんた?だった。ええっ?博士、ほら僕あの時、日本の細菌研究所で対応したじゃないっすか! ああー!細菌研究所のあの通訳さんか。思い出したー! いや、確かに自分は渡米を応援したいといったけどあれは単なるリップサービスというか社交辞令だったはずでは?来ちゃった!って言われても困るんだけど。
でも博士は行くあてのない英世を見捨てることができず、結局面倒を見ることになった。とりあえず寝る場所は屋根裏部屋。大学の助手としては雇えないので、ポケットマネーで月収8ドルを支給して毒蛇から毒を採取する助手の仕事をしてもらった。なぜ通訳をしただけの英世をここまで面倒を見てくれたのか?実はフレキスナー博士もボヘミアから来たユダヤ2世で異国の地で生きる苦労を理解していたので遠路はるばる日本からやってきた英世を見捨てることはできなかった。しかし、そこでメキメキと頭角を表した英世。蛇毒に関する文献を一人でまとめた。母国語が英語のアメリカ人研究者が半年以上かかる分量の仕事を、その半分の期間で完璧にやってのけた。英世の力量を見て彼はただの通訳ってレベルじゃねえぞと理解した博士は、月収を一気に3倍の25ドルにアップ。英世の活躍が認められて、博士のポケットマネーで雇われた日雇いから、ペンシルベニア大学の正式な助手に昇格した。そこからヘビ毒を研究した英世はアメリカの医学界で一躍有名になった。
久しぶりに福島へ戻る
出世の止まらない英世は1904年、ロックフェラー医学研究所に移籍して研究をした。日本では努力の力で切り開いていった彼はアメリカでも相変わらず、暴走機関車のように突っ走って次々とチャンスをものにした。ところが1905年、なんと梅毒の病原菌の発見で先を越されてしまった英世は心から焦った。ダメだ。自分はのんびりしてたら他の研究者に先を越される。そこからはターミネーターに生まれ変わって不眠不休で数千もの検体を顕微鏡で観察する気の遠くなるような作業に没頭した。それはまるで砂漠の真ん中で1枚の紙幣を探すような作業に例えられた。普通の人間にはとてもできない。今の時代ならAIに任せたくなるような作業だった。「研究はギャンブルである」英世は見つかるかどうかもわからないものを顕微鏡で延々探し続ける日々を送った。常人離れした英世の努力はとうとう実を結んで、1913年ついに英世は梅毒患者の脳内に梅毒スピロヘータの存在を確認した。研究所での英世の努力を示すエピソードはいくつも残されている。ナポレオンの3時間しか寝なかったという逸話を真に受けて、英世は一日3時間睡眠で研究。周囲のアメリカ人研究者からは「日本人は2日に一度しか寝ない人種」と噂され、ニックネームはヒューマンダイナモ(人間発電機)と呼ばれた。英世は1911年の34歳の時にアメリカ人女性と結婚。病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功と発表、世界の医学界に有名になった。1914年37歳で東大から医学博士の学位を授与。ロックフェラー医学研究所正員に昇進してこの年のノーベル医学賞候補にあがった。
ここまでマリオカートでスターを取った状態に大活躍をする英世は1915年に故郷の福島へ一時帰国をすることを決めた。なぜそのタイミングで帰国したのか?彼はこのまま勢いに乗って次の研究をしたった。そんな彼に帰国のきっかけを与えたのは、研究室に届いた母親からの手紙に心動かされたからだった。シカは小学校に通わなかったので字が書けなかった。しかし、とにかく活躍する息子に会いたい一心で字を勉強をしてひらがなで手紙を書いて送ってきた。その手紙を見た時に母親が苦労して直筆の手紙を書いてきたことに心を動かされ、英世は手紙を持ったまま号泣した。お母さんに会いたい、よし日本に帰ろう。忙しい研究者生活の合間を縫ってしばらく日本で久しぶりに母や恩師たちの再会を楽しんだ英世だったが、これが母親との最後の時間になった。3年後、スペイン風邪にかかってシカはこの世を去った。英世は1927年、アフリカへ渡った。野口は細菌原因説を信じて光学顕微鏡で観察を続けていたが、翌年自分も黄熱病に感染してしまい1928年51歳でアフリカでこの世を去った。
今回は以上だ。今回の伝記で感じたこと。それは野口英世は、ほとんど独学で世界的な研究者の地位を築いたということ。人並み外れた体力や研究への情熱は凡人には真似の出来ない才能があったと評価する人もいると思う。でもそれ以上に自分が思ったのは行動力がすごいということ。当時、帝国大学出身者によって牛耳られていた日本の医師界で孤立していた英世は、たった数日間通訳を担当しただけのフレクスナー博士の元に強引に押しかけ、困り果てた博士がポケットマネーで無理やり助手に採用してもらわなければならなかった。あらゆる場面で思い立ったら即行動。普通の人ではあっさり見過ごしていたようなチャンスの羽をもれなく拾い続けた強靭な行動力こそ英世の成功の鍵だったのではと思う。野口英世はアメリカで活躍して世界的な研究者に、というよりも可能性が閉じられていた日本から飛び出してアメリカンドリームを掴んだ一級の行動力を持つ男だった、ということを伝記を読んで自分は解釈した。英世は決して人生順風満帆ではなかった。それどころか、1歳にして大きなハンディを背負った。実家もお金がなく、周囲からイジメを受けて普通なら卑屈になって無敵の人として記録されていた可能性だってある。でも逆境を情熱に転換して世界を変える偉業を成し遂げた英世の情熱に現代人は学ぶところは多いのではないだろうか。逆境に嘆かず、実家が太くないと絶望せず、才能がないと諦めず、人生は常に自分の手で道なき道を開拓していく。自分は英世の背中からそのように学びを得た。あなたはどうだっただろうか?ハートに火を付ける事ができたらこんなにうれしいことはない。ほなまた。
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