今から10年前の2009年、オレは東京で就活をした。
運が悪いことに、リーマンショックが起きたタイミングだった。
…いや、最高に自分を成長させてくれた
「絶好の機会」だったと言えるかもしれない。
オレは人生で必要な多くを、地獄の就活戦線で学ぶことができたんだ。
オレの元には英語力を活かす就職、転職の相談がよく来る。
そういう人にこそ、今回のオレの話を聞いてもらいたい。
きっとあなたの人生に役に立ててもらえる話が含まれているだろう。
※注意※
この記事にはオレの心の闇が余すことなく描かれている。
トータルでは学びにつながることを言ったつもりだが、
途中は少々ムナクソ悪くなるような描写が混じっているかもしれない。
だが、普段は言えないことを生々しく、本音全開で語らせてもらった。
当時のオレはフナムシのような寒気がするほど、
頭が悪かったし、今と比べるとゴキブリのようにダサい思考の持ち主だった。
だから高尚な話を求める人はここで引き返すことを勧める。
12,000文字以上あるので、時間がない人も読まない方がいい。
だが、苦しみの中で得た光明と気付きは悪いものではないと思うので、
そうした気づきに興味がある人だけ読みすすめてくれ。
目次
求人がない…!
「オイオイ! どうなってるんだよ! 求人がねえよ!」
オレはリクナビの求人サイトが表示されたPCを前に、心のなかでそう叫んだ。
学生時代、卒業を目前に控えたオレは世の中の景況感を「求人数」で測っていた。
大学からくるお知らせは当てにならない。国の指標も対象がでかすぎる。
でも、企業が募集する求人数はまさに「生きたデータ」だとオレは感じていた。
企業も景気が良ければ事業を拡大して人手不足になり、求人を出す。
景気が良い→企業が事業投資をする→人手不足で求人増やす
と、このようにオレは「求人の数=景気のバロメーター」と考えていた。
だが、つい1ヶ月ほど前まで、鬼のようにモリモリ来ていた求人数は
今や絶命の危機に瀕していた。
その理由はリーマンショック。
第一報を聞いた時は、それが何なのかもよくわからなかったし、
オレにはまったく関係がないと思っていた。
だが、まったく他人事ではなかった。
このことが、オレの人生を完全に変えてしまうと知ったのは、
就職活動を本格化させるために行動を開始した矢先だったのだ。
就職氷河期の洗礼を受け、今度はリーマンショックか…。
大変だった米国留学を終えて、ようやく英語力と米国会計の知識を引っさげて、
就職無双をしてやろうと思っていたオレは完全に出鼻をくじかれる格好となった。
「なんでよりによって100年に一度と言われる金融危機に直面するんだよ…!後一年待ってくれれば…。」
オレは自分の不運を呪わずにはいられなかった。
これまで自分の力で人生を切り開いてきたと思っていた。
英語を独学で身につけ、
自らの努力で国内の短大入学を経て、米国の大学で専門分野を学んだ。
自分で言うのも何だが、オレは結構努力をしたつもりだ。
一時期、あまりに頑張りすぎて26歳の時にてっぺんが禿げたくらいには頑張った。
が、その頑張りをあざ笑うかのようなタイミングでリーマンショックがやってきた。
だが、オレはここで死ぬわけにはいかない。
この先の人生を生きるためには、就職しなければ生きていけないのだ。
就職できない…!
帰国後は少しだけでもゆっくり過ごそうと思っていた。
熾烈な勉強漬けだった米国でも、あまり楽しい思い出は作れなかった。
さっさと就職を決めて、卒業までの数カ月間だけでも、学生らしく遊んでみようかなと。
だが、そんな場合ではなかった。
オレは米国公認会計士(US.CPA)の資格を取るために
アビタスという梅田にあるビジネススクールに通っていた。
そこではCPAの資格取得だけでなく、就職斡旋もしてくれる。
就職先は素晴らしい会社が軒を連ねていた。
大手監査法人、税理士法人、大手外資系企業、日系グローバル企業などなど…。
ずっと大手企業で世界をまたに活躍することを憧れていたオレには、
アビタスから出ている求人群をみながら
「卒業したら自分もこうした会社で働くんだな」
とまさにうっとりとこうした求人を見ていた。
リーマンショックで求人が激減する直前、
オレはインターンシップに申し込みをしていた。
そこでは大手税理士法人で「移転価格税制コンサルタント」が有給で経験できるとあり、
インターンシップで活躍した人はそのまま内定も得られるという。
英語力も活用でき、まさに願ったり叶ったりだ。
オレはこの募集の説明会が開かれるのを毎日、
ワクワクしながら心待ちにしていて、
募集開始直後に文字通り秒速で申し込みをしたのだ。
「募集人数が多いので、米国大学留学経験もある黒坂さんならすぐに決まると思いますよ!」
と担当者は力強く言ってくれた。
だがその後、リーマンショックが起きて募集人数は1名になった。
元が何名募集だったかは忘れてしまったが、
「これだけ大量募集なら、自分は絶対に大丈夫だろう」
と高をくくっていたくらいには多かった。
そして結果は…ダメだった。
高キャリアでフルタイムで働ける主婦が、
残されたたった1つの枠をもぎ取っていってしまった。
オレはその時、心からその税理士法人を恨んだ。
「前途有望で、フルタイム勤務をする気満々で、努力に努力を重ねた若者を見捨てて、即戦力の人を採用するなんてひどい! インターンシップというのは、若者に可能性を与えてくれる制度ではなかったのかよ!」
と。
だが、そんな事を言っても何も始まらない。
学校に行くと、4年間を勉強せずにフラフラ過ごしていたクラスメイトが次々と
内定を得ていることがわかってまた絶望した。
「リーマンショックって言われてるけど、全然余裕だったよw」
と笑顔でいう彼らの言葉に心えぐられる。
オレは正直、大学に入って遊んでばかりいるクラスメイトを下に見ていたと思う。
「きゃー! やっぱり金髪はかっこいい!」
と留学生を見てさわぐ彼ら、彼女たちをバカにしていた。
「貴重な学生時代をそんなことばかり言うことに費やすなんて人生の冒涜すぎる。オレは努力するぞ」
と彼らと意識的に距離をおき、毎日図書館にこもって必死になって勉強をしていた。
留学もした。
成績もオール「優(最上)」で、無遅刻・無欠席・無早退。
土日はコールセンター派遣をして学費を稼ぎながら頑張っている苦学生のオレだ。
「親のすねをかじりめw」
と下に見ていたクラスメイトが次々と内定を得て安堵する様子を見て、
オレは発狂しそうになった。
それから毎日、気が狂った勢いで求人に応募し続けた。
ソニー、東芝、日立…。
ことごとく落とされた。
理由は全部同じ。
「23歳まで派遣しか経験がなく、27歳までブランクという点が懸念される」
とのことだった。
オイオイ待ってくれ。
オレは4年間、遊び呆けてたわけじゃねーぞ?
履歴書をもっとちゃんと良く見てくれよ!
TOEICも英検も取得し、留学もしたんだぞ!
なんでちゃんと見てくれないんだ!
周囲からみると基本的に無表情だったが、心の中は嵐が吹き荒れていた。
100社応募してもノーレスポンス。
大企業だけでなく、中小零細企業にも応募するがことごとく無視された。
1件だけ「面接に来てもらえませんか?」と回答があった。
それは福岡県の片隅にある、小さな会計事務所のアルバイト。
一日3-4時間だけ時給1,000円で働いてくれるならいいからと。
ダメだ。そんなのじゃ生きていけない。
そしてオレは決心する。
「こうなったら上京して総当りで戦おう。応募する企業がなくなってしまう勢いで行くしかない」
そう思ったオレは平日にコールセンターを申し込みをした。
土日はもちろん、平日も通っていたので
文字通りオレには自由時間も勉強の時間もゼロになった。
コールセンターで働いていた10代のフリーターから
「え? 黒坂さん27歳で派遣なんすか? 割と人生終わっていますねw」
と笑いながら言われて、人生で初めて出会ったばかりの他人を本気で殴りたくなった。
だが、それどころではない。
上京するためのお金を作るために必死に働いた。
当時、オレは夜が怖かったと記憶している。
なぜかって、将来のことを考えすぎて眠れないからだ。
「もしかしてオレは呪われているんだろうか?」
そう思った。
どれだけ努力をしても、最後にはあざ笑うかのような結果しか待っていない。
そう思うと、もう死んでしまいたくなった。
27年生きたし、もう十分かな、と。
毎日、もんもんと将来不安に悩み続けて、ようやく寝付くのは夜中3時過ぎにだった。
当時、唯一オレの心を癒やしてくれるのはスキマ時間で楽しんでいたニコニコ動画。
投稿される動画に
「クソワラタwww」
と流れ行くコメントを見て笑っているときだけは就活のことを忘れられたのだ。
だから就活とコールセンターにいるとき以外は、ずっとニコニコ動画ばかり見ていた。
何も持たずに上京へ
オレはコールセンターでお金を作り、2月上旬に数十万円を持って東京へ行くことを決意した。
母親はオレをひどく心配した。
「せめて大学卒業までいたら?」
と。だがオレはいった。
「いや、オレはこれ以上時間をムダにはできない。東京で勝負してくる。世話になった」
と母親に告げた。
実家もカネがない。
大学入学が決まった時のお祝いに行ったのは、
生まれ育った大阪府池田市のスシローだ。
大学卒業のお祝いは隣町の大阪府豊中市の王将だった。
普通はもっと豪勢なレストランなどだろう。
笑ってくれていいぞ? オレマジで貧乏だったんだ。
大学から卒業式についてのお知らせが来たが、
「参加しない」
と連絡を入れ、学位記は東京に郵送してもらうことにした。
卒業式なんぞ茶番に付き合っているヒマはない。
このままだと、オレは4月の新卒シーズンに無職27歳になる。
後2ヶ月。もう時間がないんだ。
東京へ行く日、オレは荷物をまとめて
母親に梅田の夜行バス乗り場に連れて行ってもらった。
翌朝からはいよいよ憧れの東京だ。
送ってくれた母にお礼を言ってバスに乗り込む。
4列シートではなく、3列シートを選んだのは
少しでも睡眠をとって到着した日から就活が出来るようにと考えてのことだ。
…だが、結局不安すぎて一睡もできないまま、バスは東京駅八重洲口に到着した。
東京についたオレは山手線の迫力にビビりながら、
ねぐらに決めた南千住・日本堤という場所にある日雇い労働者宿泊施設に転がり込んだ。
一日2,000円台で3畳のスペースがオレのプライベート空間だ。
トイレもシャワーも共同で、
オレの他の宿泊客は日雇い肉体労働者か、日本に観光する外国人だけだ。
いよいよどうしようもなくなったときのために、
完全自殺マニュアルという図書の準備はしていた。
食費を極限まで抑えるため、
玄米・大豆・ゴマを通販で届けてもらい、
玄米と大豆は水につけて発芽させて、栄養素を増やして塩を振って食べた。
朝・昼・夜、3食とも発芽玄米&大豆を食べ続けて食いつなぐ。
到着して荷物をおろした瞬間から、オレはしっぽに火がついた猫が飛び上がるがごとく、
日雇い労働者宿泊施設で共同スペースの無料Wifiで求人に応募を始めた。
そして上京当日の午後から、早速スーツを着て派遣会社の面接に行った。
そう、ここでオレは作戦を変えた。
いきなり「就職」は多分ムリだ。
そうではなく「紹介予定派遣」で入ろう。
とにかくお金が必要だ。
オレの手元のお金が底を尽きる前に動かなければ文字通り死ぬ。
紹介予定派遣なら、正社員登用よりハードルは低いだろうという算段である。
オレは10社近くの派遣会社に登録をした。
毎回驚かれるのは、
「こんなに高い英語力と資格、留学経験があるあなたがなぜ派遣に?」
というものだった。
それはオレも心が痛くなるほどわかってる。
だがオレみたいなゴミを企業は正社員の採用をしてくれないんだ。
それを伝えると、いくつか案件を紹介してもらった。
もちろん、深く考えることなく次々と応募する。
とにかくアルバイトでもなんでも、仕事を決めないと死ぬ。
必死だった。
だが、1週間経っても仕事は決まらない。
焦ったオレは、最後にはコンビニにおいてあるタウンワークを手に取り、
「日本人英会話講師募集!時給1,100円!」
というアルバイト求人に応募もした。
生きるためなら、プライドなんて捨てる想いだった。
派遣会社からは
「コールセンターの経験が長いので、英語力を活かせるコールセンターなら案件がありますが?」
と言われてオレは本気で泣きそうになった。…悪い意味で。
オレは米国にいってあれほど必死に勉強したのは、
東京でコールセンター派遣をするためじゃないのに!と憤慨していた。
仕事の幅を広げるため、派遣会社だけではなく、
上野のハローワークにも行った。
表に出るとテレビ番組のカメラマンがオレを待ち構えていた。
「リーマンショックで就職難の昨今ですが、仕事決まりそうですか?」
とマイクとカメラを向けられた。
当時のオレは心が腐っていたので、
「正直、絶望的な気分で、リーマンショックを恨んでいます。もう死んでしまいたい。」
と頭に思っていたことをそのまま答えてしまった。
これが初めてテレビデビューした瞬間だと思う。
「大変ですよね…」
と同情されたが、「お前らは給料もらってるだろ!」と逆にイラ立ってしまった。
一筋の光明
そして1社なんとか面接に呼んでもらえた。
東京・丸の内界隈にある某・外資系企業だ。
アルバイトではなく、紹介予定派遣採用だ。
面接を受けに丸の内ビルへ。
セキュリティを通って会社に向かう。
受付を通ると、雑誌や人伝いでの話にしか聞いたことがなかった外資系企業の華やかな内装に迎えられた。
「この会社には外国人社員しかいないのでは?」
と勘違いするほど金髪の社員が闊歩していた。
でかいディスプレイに自社PR映像がリピート再生され、会話はすべて英語だ。
ワクワクしながら応接室へ通される。
ジョディさん(仮名)という外人との面接だ。
ジョディさんは見てくれも名前も思いっきり外人なのに、
日本語の流暢さはすごかった。多分、ハーフなのだろう。
こちらが英検1級レベルの難しい単語を使ってしゃべっているのに、
全て理解できているようだった。
面接で浴びせられる質問内容は、思いっきり外資系なノリだった。
前職の仕事内容を中心に、今までぶつかった困難やその対応方法。
また、どんなキャリアパスを構築したいか?などの質問ばかりが飛び出してくる。
「絶対にこのチャンスを逃してはならない!」
と焦りに焦っていたので、自己嫌悪するくらいにしどろもどろな対応になってしまった。
途中「Are you nervous?」と心配されるほどに。
表から見てわかるほどに焦っていたようだ。
情けない。こんな応対で受けるわけないぜ!と思いながら退社した。
紹介エージェントに面接が終了した旨を電話で伝える。
その後、5分もせずに携帯に連絡が入り、「ぜひ正社員を前提に来てほしい」とのことだった。
どうやら自分はかなり気に入られたようだった。
そういえば応募の書類選考の時点でぜひあいたいとの熱いコールをもらっていたことを思い出す。
自分を必要としてくれていることがはっきり伝わってきてうれしかった。
もしかしたらもしかすると、この会社での正社員いけるんじゃね?という考えが広がる。
数年後、この会社でばりばり英語を駆使して、
精力的に仕事をするビジョンが広がっていった。
とにかくは腰を落ち着ける場所を獲得して安堵した。
オレは大阪で心配する母親に、狭い部屋から小躍りしながら電話をかけた。
母は喜んでくれた。
なんとか4月の卒業を迎える前にオレも春を迎えることができた!
最高の気分だった。
先日、ハローワークで調べてもらった雇用保険番号と
自宅から持ってきた年金手帳を提出し、入社手続き契約を交わした。
電話口ですでに聞いていたものの、派遣期間中の時給がすさまじくて度肝を抜かれた。
1850円だ。時間外は2300円以上である。
毎日8時間勤務で週5日勤務でかっちり働けばそれだけで30万円に届く。
もう一生、この会社で骨を埋めていいんじゃないか?
と言う気持ちになってくる。
月曜日からの国際人として働く期待に胸の高鳴りを感じずに入られない。
働くのがこんなに楽しみだと思えるのはいくらぶりくらいだろうか。
オレは今、最高にラッキーな男だと断言できると思っていた。
初日は8時50分に集合予定なのだが、
あまりにも浮足立っていたので、到着時間の2時間も前に家を出てしまった。
軽い社内ツアーをしてもらった。
面接で来社したときから思っていたが、
本当に今まで見たことも無いほどに美しい内装に驚きを隠せなかった。
よく見ると社員は談笑しながら、軽食を取っている。
どうやら社内に無料食堂が提供されているらしい。
すげえところに来てしまったと思った。
研修が始まる。
自分の他に同じ派遣会社からきた女性がいた。
彼女は帰国子女で、アメリカ歴15年だと言うから驚くしかない。
ハワイとLAにすんでいたらしい。
さらに過去に紹介して入社した人も同様に帰国子女。
どうなってるんだ。果たして純ジャパの自分の実力で通用するのだろうか激しく心配だ。
担当者によると本日の研修は英語で行われると言うじゃないか。
面接はこれまたスタイリッシュで近未来的な内装の部屋に通される。
今回紹介予定派遣で入社する人は5人。自分除いて全員帰国子女とハーフだった。
ランチは早速、社内の食事を利用させてもらった。
選ぶのが目移りするほどに沢山の食事が用事されていた。
簡単なお菓子から、コーラから牛乳まで取り揃えたジュース。
インスタントラーメンにパン、それに果物や野菜まである。
クビになって自殺を考える
日々、研修に参加して忙しい日々を送っていた。
ある日、研修が終わり、社内チャットで人事から
「仕事が終わったら人事部に来てほしい」
と言われた。
多分、正社員登録についての話だろうと予期していたのだが、全くそのとおりだった。
今は派遣だが、正社員前提として今後も研修に臨んでほしいとと言われた。
正社員登録後は9時間勤務と、1時間長い勤務となり年収は350万円、
初年度のボーナスは給料の1か月分を支給するとのことだ。
その他もろもろの特典は社員登録の際に声をかけさせてもらうと言われた。
家に帰ると大学のクラスメイトからメールが来ていた。
それを見て思い出した。
今日は大学の卒業式じゃねえか。
数人から「どこにいるのか?」と自分を探す連絡が入っていた。
仕事で手一杯で大学のことをすっかり失念していた。
大学の卒業式、みんなが振袖や袴なんかをわざわざ調達して鼻息を荒くするほどに大事な日だ。
だが、クラスメイトとおしゃべりに興じることに惹かれるほどにはオレには友達がいないし、今は東京にいる。
オレは大学の卒業式には参加しなかった。
ある日、会社で昼飯を食っていたらYさんに声をかけられた。
年齢は23歳で、アメリカのニューヨーク大学を卒業したばかり。
多分この会社で一番若い人間だ。
野球が好きで、アメリカではスポーツビジネスを専攻していたのだと言う。
だがこの人から自分はずいぶんいじめられた。
元々彼をまとう雰囲気には、DQN臭が漂っていた。
その予感は見事に的中した。
到底、この会社の社員に共通する人の良さとは乖離したなめた発言が目立つ。
「黒坂さん、あなたふざけないで下さいよ」とか、
「日本語分かりますか?」とか徹底的に言われ続けた。
その場で殴り倒してやりたくなったが、
ぐっと我慢した。
実力をつけて文句を言えないようにしてやればいい、と必死に努力していた。
だが、突然その日はやってきた。
忘れもしない3月31日。
オレは仕事を終え、17時10分にログオフしようとしているところに
人事部から「すぐきてください」との連絡が入った。
このタイミングで人事部から連絡があると言うことは…もしかしたら。
この頃にはもはや最後だと言う覚悟をしながら、人事部の部屋へと続く階段を上がっていた。
最悪の予想は的中する。
「非常に残念ですが、本日であなたはクビになりました」
と通告を受ける。
本日、昨日とジョディさんが自分の仕事ぷりをモニタリングしており、
総合的に判断して、やむなく解雇を断行したと切り出された。
それを聞いた瞬間、オレは相手がうそを言っていることに気づいた。
それは多分、理由の後付だ。
業務の継続が不可能になったと判断したのは、もっともっと以前からで別の理由がある。
その状況証拠はあちこちにちりばめられていた。
自分だけみんなと違う扱いをしだしたのは先週中ごろくらいからだった。
つまり、この数日間の勤務は「あなたの様子を見たけど改善が無かったからしかたがない」
という主張に正当性らしさをもたせるのに使われたと言うことだ。
何てことだ。自分がクビになるフラグがあちこちにたっていたとはいえ、
最後まで希望的観測を持ち続けて、自分なりに頑張っていた自分がバカみたいじゃないか。
わけもわからないうちのクビ宣告に、オレは相手に言いたいことは沢山あった。
クビの理由は未だにわからない。
だが、この段で何を言ってもクビの事実を変えうることは不可能だと
人事担当者の冷たい眼差しが物語っている。
つまり、これで仕事はおしまいだと。
明日からお前はニートだよということだ。
「仕方ないですよね」と落胆を出さず、最後まで冷静に退社できたのは自分でも意外だった。
自分はもっと熱く反論すると思っていたのだが、見限りがずいぶんあっさりしている。
これは大きな衝撃が後からくるな、そう思った。
ビルを出てすぐに母の携帯に連絡を入れる。
クビになったなどといえるわけは無く、
「事情があってやめてやった!」と強がる。
多分、ばれているだろう。
電話を切り、電車で帰宅する途中、
再び暗い影が支配する自分の世界へ戻ってきた。
英字新聞を見ても目が動いているだけで、
脳を満たすのは期待した分だけ高められ、
そして突き落とされた奈落の底いっぱいの絶望感だ。
自分と言う人格を一度は認め、そして否定する行為の刃は
こんなにも鋭くて、そしてこんなにも心奥深くにつきささるとは。
千代田線の電車が入ってくる。ふらりと前に足を投げ出す。
もう2メートル進むと電車と接触する。
その後のビジョンに行為の後悔の念を見出せず、
なるほど自殺志願者の発作的な自害はこういう心持だったのかと思い知らされた。
綾瀬駅で下車。最寄りの北綾瀬行きの電車には乗らなかった。
今日はひと駅分歩いて帰りたい気持ちになった。
歩いて帰る途中に駅前のイトーヨーカ堂で酒を買って帰り、今日は酔いつぶれようと言う考えだった。
途中で弟に電話連絡を入れる。
「なめていた会社だったから自分からけったわw」
と言う偽の仮面をオレはつけた。
強がってもクビになった事実は変わらないのに…。
でも、弟と話している間だけは、負の精神を外界へ追いやれる気がした。
正直、もう大阪へ帰りたい。いや、もう本気で死にたい。
弟から返される言葉はオレはまったく期待していなかった。
それだけに彼の答えを聞いたとき、オレは東京に来て以来、
自分に付きまとう運命と呼んでしまいたい不運の連鎖を根幹から断ち切れた心持ちになった。
「頑張ってくれ。兄貴はうちら兄弟みんなの希望だ。オレ応援してるよ」と彼はいった。
これには驚かされた。
弟の性格を考えると、「勝手にしろ」とだけいって電話を切られると思っていたから。
そしてオレは反省した。
周囲の反対を押し切って大学卒業前に東京に行くと決めたのも、
仕事がうまくいかないと感じていたのも、
会社をクビになったのも、死にたくなったのも全部全部オレが原因だ。
そして「どうせダメだろう」という決めつけた諦めの心を持っていた事に気づいた。
明日は何が起きるか分からないのに、
「どうせ明日も灰色で、サイアクな一日に違いない」と決め付けている自分を恥じた。
会社を追い出されたのも、こうしてむなしくなっているのも全てはオレの行動の結果だ。
「残念ですが…」と人事部が口に出した瞬間、
全身を駆け抜けた戦慄とうまくいった中の失敗部分だけを探してくっつけている
自分のものの見方が全く論理的でないことに愕然とした。
人にいろいろと偉そうに講釈をたれる割に、
オレはまったくたいしたことの無い人間であることに気づいた。
その事に気づき、電話で弟に深く感謝を伝え、
生きる気力を取り戻したオレは、イトーヨーカ堂で酒は買わずにまっすぐ自室に戻る。
弟と話したことでさした光で見えるようになったものは、
今の自分にはあまりにも多く、力強く感じた。
いいじゃないか。新生活の節目が4月というのなら、明日4月1日がからが新たな一歩になっても。
一筋の光明と大きな気付き
翌日からオレは再び、無職になった。
だがオレは大きく成長していた。
わずかな期間ではあるが、あの会社で働いたことで大きく理解できたことがある。
それは「強く生きること」と「相手が求めることをする」ということだ。
なぜクビになったのかはっきりした理由は今でもわからない。
だが、理由がわからない時点で、オレが相手目線ではなかった何よりの証拠だ。
世の中は人と人との関係で成り立っている。
ビジネスと言えども、人と人との関係であることには変わらない。
相手のことを考えない人は、相手の気持ちもわからないし、
相手から好かれることも決してない。
オレは自分が生き延びるために、自分のことしか考えていなかった。
その姿勢が相手に「こんなやつはいらない」と思わせてしまったことは間違いない。
それがクビにつながったのだろう。
それに気づいたオレは心を入れ替えた。
自分が得をしたければ、
何よりもまず相手の得だけを考える必要があることが心の底から理解できた。
辛い経験が人を成長させる
会社に就職の応募をする時には
「この会社は自分に何を与えてくれるのか?」
という傲慢な姿勢だった。それを改め、
「この会社は何を求めていて、オレは相手に何を与えられるのか?」
という思考を持つことができた。
もっと早く、この思考を持っていればクビになることもなかっただろうし、
もっとはやく就職できていただろう。
だが皮肉なことに世の中の多くのことは、失った後に初めて分かることが多いのだ。
この思考を持ってから、オレは全く面接で落ちることがなくなった。
当たり前だ。
心を入れ替えた後のオレは、その会社で働いている社員以上に
その会社のニーズを理解してやろうと必死になっていたからだ。
IR情報やその会社のニュース記事を読み込み、経営者の情報を集めた。
相手がどんな価値観やビジョンを持っていて、
何を求めているのか?を真剣に考える。
さらにそれに対して、
オレはどんな価値ある経験とスキルを持っていて、
相手に価値として提供できるということを情熱的に訴えた。
この作戦は驚くほど効果があった。
書類が通り、面接に呼ばれればまず落ちなくなった。
4月で求人の状況が少し改善していた事情も追い風になった。
面接でも「あなたのような人材が是非欲しい」など言われて、オレは自信を持った。
「どんなときでも、常に相手の求めることをしっかり理解する」
ということの兵法は起業した今でも生きているスキルだ。
求人倍率10倍、20倍と言われてもまったくビビることがなくなった。
また、わらしべ的思考を獲得できた事実は大きい。
オレはUS.CPAの知識があったので、
いきなり「英語&会計」の職に総当りで応募してはことごとく玉砕していた。
だが、気づいた。
いきなりジャンプして近道をしようとするのは、近道のようで実は遠回りなのだ。
「わらしべ長者のようにひとつひとつ、必要なことを積み重ねていこう」
この思考を持つ重要性に気づくことができた収穫は大きい。
ご存知の通り、わらしべ長者というのは最初はわらと物々交換をしていたのが、
最後にはお金持ちになったという話だ。
オレはブルームバーグLPという会社でまずは英語力を活かした仕事経験を積むことを選んだ。
同社で翻訳・通訳の経験を積み、
転職したセブン&アイで経理の経験を積んだ。
これで英語と会計の経験もある状態になったことで、
それを持ってコカ・コーラへいったことで
英語&会計のスキル知識を積み上げることができたのだ。
ブルームバーグLPで英語の経験を積む
→セブンで会計の経験を積む
→コカ・コーラで英語+会計のスキルを活かした仕事をする
という具合に、正社員で働いて3社目にしてようやく念願の仕事が出来た。
でも最初からコカ・コーラが募集していたような案件に飛び込んでも、
まず相手にされなかっただろう。
そして最後に「強く生きる」ということの重要性を理解できた。
人生は何が起こるかわからない。
いいことも辛いこともたくさんあふれている。
どんなことからも学びを得ることができる。
だが、その一つ一つの事項を冷静に、自分の学びとして得るには心の強さが必要だ。
普通の人は悲しんだり、冷静に考える代わりによく怒る。
なぜなら怒ることは悲しんだり、冷静さを保つより断然楽だからだ。
怒って誰かに話を聞いてもらえばスッキリするだろう。
だが、怒りからは価値ある教訓や気付きは得られない。
せっかく嫌な思いをしているのに、そこから何も学べないのでは、
まさに「苦しみ損」といえる。
だから心を強く持つことで、どんなに辛いと思えるようなことからも、
「自分はここから何を学べるのか?」を考えようにしてほしい。
最後にオレからあなたへ
こんな12,000文字以上ある気が狂ったほどの長文を、最後まで読んでくれてありがとうw
「多分、ページを開いた人のほとんどはここまで読んでねえだろうなw」
と思いながらも、数時間かけて日記を読み返しながらココまで書いた。
オレがこのエピソードで伝えたかったことを1つあなたに伝えるとすれば、
それは「どんなときも成長することを優先させる」という思考だ。
多分、あなたは苦労したくはないだろう。
いや、あなただけじゃない。
世の中のほとんどの人は苦労することを避ける。
確かに世の中には無益な苦労というのはあるだろう。
飛行機が手軽に利用できる今、徒歩で移動する意味合いは薄れた。
だけど、経験して価値ある苦労というのは間違いなくあるんだ。
オレは今振り返ると、本当にリーマンショックの直撃を受けてよかったと思っている。
「生きる強さ」を得られたと思っているんだ。
変化の速い時代においては、強くなくては生きていけない。
その心の強さをこの経験から学べた。
今や、オレは心が折れることが皆無になった。
そのきっかけがこのリーマンショックの体験なんだ。
そういう意味で、有意義な苦労ができてよかったと思っている。
あなたは今、何かに苦しんでいるかもしれない。
辛い思いをしているかもしれない。
だが、落ち着いて考えてほしい。
その状態はきっと、あなたを大きく成長させてくれるのだと。
絶対に今感じているその苦しさの中に、
自分の未来を明るく照らす光の種子があるのだと信じてほしいんだ。
オレがリーマンショックの体験に感謝が出来るようになったのは、
苦しみぬいていた時期から3年くらいあとになってのことだ。
だから苦労の価値というのは、すぐにはわからない。
だけど、思考を止めてはいけない。
あなたが現在進行形で味わっている苦しみからも、
きっと価値ある何かがあるはずで、それは数年後に花開く予定の種なのだということだ。
そして迷ったら苦労しない道じゃなくて、成長できる道を選んでほしいんだ。
元気出せよ!少しでもあなたの人生の気付きや成長発展につながると嬉しい。
とても示唆に富むお話しです。黒坂さんは、お若いのに良い意味で老成したバランスの良いセンスをお持ちと思っておりましたが、その理由のほんの一部がわかったような気がします。
Kunihiko GEJOHさん
そんなに言ってもらえて嬉しく思います!
なかなか大変な体験でしたが、
学べたことも多かったので今では良かったなと思っています!
ありがとうございます!
黒坂
じっくり拝読させていただきました。努力されたお姿を想像し、自分を顧みると、全力投球してきたのは、完全に独りよがりであると思い知らされた次第です。私は、派遣の身分でありながら海外出張に行かせてもらい、客先および取引先に私一人で対応してきたという自負を持ち続けていました。その矢先に、リーマンショックで切られ、失意のどん底にいました。その後、時間はかかりましたが、再び派遣社員としてお仕事をもらえて一生懸命やってきました。ですが、ここにきて、またコロナ禍で失業してしまいました。キャリアだけでは、武器にならないことを今更ながら骨身に染みている2020年。自分の不運を恨みましたが、今は、黒坂さんを知ることができたことに感謝しています。これから、私になかった決定的な資格を目指し、貫いてきている”生涯現役”の目標を実現させようと決めました。ありがとうございました。
Korisuさん
コメントありがとうございます!
また、少しでもいい気づきになればメチャメチャ嬉しいです。
その時は辛いこともたくさんありましたが、
振り返ると都度成長の機会もたくさんあった気がします。
リーマンショック、コロナショックで大変かと思うのですが、
あとから振り返れば、価値ある体験となるものもあるかもしれませんね。
ご武運をお祈りしております!
黒坂
圧倒され参考になりました。それと心地良さもありました。ひとさまの自己開示に触れるのはとても刺激になります。
フジイマサヒロさん
そういってもらえるとスゴく嬉しいです。
当時はきつかったけど、今はいい体験ができてよかったと思いますね。
黒坂
黒坂先生
拝読しました。
自分も似た経験があり、非常に心を揺さぶられました。
英語のご指導は勿論の事ですが、この様な体験談もまたお聞きしたいです。
Joeさん
ご丁寧にありがとうございます!
似たようなご経験がおありなのですね…!
見直してみると、この時は本当に辛かったものですが
今ではこの体験は財産となっています。
体験談、また記事書いてみたいと思います!
リクエスト本当にありがとうございます!
黒坂